ガムランを救え
Save The GAMELAN!!

埃をかぶる楽器  Photo by Shin NAKAGAWA
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「ガムランを救え」活動は2013年をもって終了しました。ご支援、ご協力いただいたすべての人に感謝します。ありがとうございました。

 

ガムランエイドの活動を閉じるにあたって

ガムランエイド 代表 中川真

 

 

 2006年の5月27日に発生したジャワ島中部大地震を機に生まれた「ガムランエイド(ガムランを救え!)」の組織と活動を、本年をもっていったん終止することとなりました。皆さんからは寄付金(義捐金)やボランタリーな活動など、いろいろご支援をいただきました。ここに篤くお礼を申し上げるとともに、この7年間を振り返ってご報告を申し上げます。
 この活動の最も重要な目的は、震災によって生じたジャワ島中部、特にジョグジャカルタにおけるガムランをはじめとする伝統的な芸能の復興支援にあり、支援の中核をなすのは義捐金の送付でありました。まず初めにこの点について報告申し上げます。
 義捐金については、銀行・郵便局の口座への振込、チャリティイベント、郵送ほか直接の受け取りなど、様々な形がありましたが、各年の総額は以下のような数字となっています。
 2006年 1,570,925(円)
 2007年   619,745
 2008年      7,500
 2010年     32,670
 2013年   5,000
  (計)  2,235,840
 これが現金で集まったお金の総計です。その使い方としては、本組織の事務作業等の人件費にはいっさい使わず、文房具購入など最小限の必要経費を賄うだけで、専ら現地救済のために使うのを目的といたしました。2008年に国際交流基金の草の根交流の助成で現地に行ったほか、ガムランエイドのメンバーは何度かインドネシアに渡航しましたが、渡航費用等全て別会計にて賄っています。結果から申しますと、義捐金2,235,840円のうち2,147,631円を使い、イベント余剰金や2010年以降の寄付金など88,209円が手元に残りました。現在ではガムランの修復や演奏再開はほぼ完了しており、当初の目的のためにこれを送金するのはあまり意味をなさないとの判断から、ガムランエイドのメンバー間で意見の集約を行い、2011年の東日本大震災の後の芸術活動支援である東北アーツエイドと連携する「公益財団法人神戸文化支援基金」に、東北の被災地の芸術・芸能復興支援に使っていただきたいとのメッセージを付して、このお金を寄付致しました。本年(2013年)7月10日のことです。これをもって浄財の残額はゼロとなり、銀行・郵便局の各口座も解約いたしました。
 以上が簡単な会計報告です。実際に、どのようなイベントで義捐金が集まったのか、また現地にどのような支援をしたのか等については、このホームページにおける記録・写真等をご参照ください。
 では、以下に、ガムランエイドの活動について簡単に振り返ってみたいと思います。これはあくまでも代表者である中川からの視点であり、この組織全体の意思を100%集約したものではないことを、予めお断りしておきます。     
 2006年5月27日の早朝に起こったジャワ島中部大地震の報を受けて、その2、3日後に「ガムランを救え!」という組織を立ち上げたのが始まりです。組織とはいうものの、いわゆる法人組織のようなしっかりとしたものではなく、この震災に驚き、心が痛み、何らかの支援をしたいと思った人々の自発的な集まりとしてスタートしました。すぐに毎日新聞の記事になったのですが、そこに「ガムランを救え」という見出しがつけられたので、それを組織名にしたのです。義捐金を受け付けることとし、銀行などには「規約」や「役員表」などを提出し、ひとつの組織(任意団体)となりました。
 1年目に行ったことは、現地の緊急視察(これは私のほか2名が1ヶ月以内に行きました)、国内でのチャリティイベントの開催、義捐金の受付と送金、その3点でした。すぐにメンバーの1人がウェブサイトを作ってくれました。在大阪インドネシア共和国総領事館から、文化復興支援にフォーカスしたいのならば、現地にパートナーをつくって、そこと協働でやりなさいというアドバイスをいただき、インドネシア芸術大学ジョグジャ校のジョハンさん(音楽心理学)を中心にフォーラム7というグループを作ってもらいました。そこから被災写真を送っていただき、日本で写真展やチャリティコンサートを開催し、そのイベントは20件以上(主催、共催など)にのぼりました。共催には生野区の社会福祉協議会など公的なセクターも含まれています。本当に多くの方々に動いていただきました。生野区民ホールでのコンサート、たんぽぽの家でのイベント、関西の個々のガムラングループの公演など、記憶に残るイベントが次々と実施されました。集まったお金は、現地の楽器や衣裳、練習所の修復、音楽家への演奏謝礼金など、モノの回復・修繕のみならず、様々な出来事のためにも使われました。現地の活動計画はフォーラム7にお任せし、私たちはその個々の事業には口出しをしないというスタンスでした。
 このプロジェクトを開始したときに、次のような活動方針をたてました。
持続性:一時的なものではなく、長期的視野をもった取り組み
多様性:かかわる人々の多様な温度差を認めながら活動
現地のニーズを尊重:現地の人々の意思を最大限に尊重
 1年目はバタバタと過ぎましたが、徐々に被災のことは忘れられていきます。それは当然ともいえます。遠く離れている日本のみならず、現地のインドネシアにもそういう傾向が見られました。復興はあんまり進んでいないのに忘れ去られてゆくのは辛いものです。インフラの回復と反比例して、被災地の人々の気持ちは落ち込んでいきます。そういった状況を汲んで、ちょうど1年経った2007年5月27日に、神戸のC.A.P.ハウスで「マンディ・サマサマ 私たちは忘れていない!」というメッセージを打ち出す大きなイベントをしました。これは朝から夜まで、10時間近く演奏やシンポジウムが続くもので、ジョグジャカルタからアーティストインレジデンスという形で、若い美術家ピウス・シギット・クンチョロさんを招聘しました。また当日にはジョハンさんもやってきて現状を語ってくれました。東京からは歌手のおおたか静流さんが自腹で来て歌ってくれました。阪神・淡路大震災で生まれたフランスと神戸をつなぐアーティストの集まりであるアクトコウベ・ジャパンのメンバーが、持続的な関係の持ち方について盛んに教えてくれたのが、この頃です。とにかく、復興するまでかかわろうということで、ガムランエイドは2年目に突入しました。
 2年経った2008年に国際交流基金の草の根交流への申請が採択され、5月末に13名のガムランエイドのメンバーが1週間ほどジョグジャカルタを訪問しました。メンバー出身地のスモヨ村とか、現地に永く滞在してアート活動の支援を行っている加藤マミさん関連のイモギリのバティックの村などを訪ね、最後にバントゥル県のニティプラヤン村に着きました。この村ではオンさんという方がアートディレクターをしていますが、私たちが着いた日に「じゃ、明日はフェスティバルをしよう」ということに急遽決まり、あれよあれよという間に、村人が会場を作っていきました。これにはびっくりしました。そして翌日には、私たちだけではなく、周辺の色々なところから話を聞きつけてパフォーマンスの集団が押し寄せ(あの有名な女形舞踊家のディディ・ニニトウォさんも来てくれました)、本当に村をあげてのお祭りになってしまいました。驚きでした。と同時に、アートがコミュニティを支えている現場を確かに見届けたという感じもしました。オンさんは翌年に日本に招聘されました。
 そして、翌日のフォーラム7とのミーティングではもっと大きな衝撃を受けました。それは向こうのメンバーから「もう支援はしてほしくない」と言われたのです。もちろん、こんなにズバリと言われたわけではありません。驚きましたが、訳を聞くと少し納得。支援され続けることによって現地の人々から失われていくものがあるというのです。端的にいえば、支援をされ馴れることへの危機感です。アーティストから自立心が奪われるかもしれない。では、どうすればいいのか?
 これはガムランエイドの今後を決定づける重要な瞬間であると思いました。私なりの解釈をすれば、私たちが「支援する」というスタンスを続けるかぎり、「支援する/される」といった関係から逃れることができない。そして、そこからは意義深い未来が見通せない、ということなのです。確かに、「支援する」というのは悪くないですが、ともすれば支援してあげているといった「上から目線」を持ってしまう可能性もある。きっと、そういう傲慢で手前勝手な部分を彼らは微妙に感じ取ったのではないかと思うのです。これはとても貴重な指摘であると思いました。何か転換しないと、ガムランエイドは行き詰まるだろうという予感すらしました。実は、そういった問題提起から2009年にジョグジャカルタで「子どものための創造音楽祭」、神戸で「第3回 マンディ・サマサマ “シェア!”」が生まれたのでした。
 創造音楽祭なのですが、ジョハンさんはインドネシアの国レベルの教育カリキュラムの専門委員で、かねてより小学校の音楽教育に疑問を感じており、被災地復興の道のりのなかで、新たな音楽教育を実験的に実施したいと思っていました。では、それを皆でもり立てていこうということで、この音楽祭がスタートしました。音楽祭とはいっても、重要なのはその前のプロセスです。インドネシア芸大の学生や卒業生が小学校に行って、教員にワークショップをしながら、創造的な音楽を子どもたちとともに数ヶ月にわたって作り、最後にコンサートという形で発表するのです。西洋音楽中心のインドネシアの音楽教育にある種のくさびを打つとともに、壊滅的な打撃を受けたコミュニティや小学校の復活のために、子どもたちに柔軟で創造的なマインドを身につけてもらい、将来に起こる災害に立ち向かってもらいたいという願いがこもっています。ペットボトルや空き缶、鍋釜などの日用品を楽器として用いるもので、決して音楽のスキルの上達やプロの音楽家の育成をめざすものではありません。第1回は6月末に行われ、私以外に2名のメンバーが日本から参加しました。6校の小学生が舞台に乗り、自分たちでつくったオリジナルの音楽の出来映えを競いました。
 神戸での「第3回 マンディ・サマサマ “シェア!”」は、7月31日、8月1日にC.A.P.のQ2で行われました。インドネシアからは前述のニティプラヤン村のオンさんを招聘し、子どもたちとワークショップをしたり(発表も)、創造音楽祭の報告を行ってもらったりました。そのほか、ガムラン有志チームによる「グンパ(地震)」の再演も評判を呼びました。これはジョグジャカルタ在住の音楽家ラハルジョさんの作品で、2006年の秋に曲ができ、2007年3月に大阪のガムラングループ・マルガサリによって初演されたものです。40分の大作ですが、初めの35分は地震が襲うまでのジャワの人々の穏やかで楽しい日常生活が描かれ、終わりの5分で地震が襲い、烈しい悲しみのなかで唐突に終わるという作品で、演劇的な要素も盛り込まれた内容となっています。これは音による震災のドキュメントであり、その上演は2008年でも重要な意味をもつと思われたのです。語り部のように、「震災を忘れない」ために演奏し続ける必要があると思ったのですが、ジョグジャカルタでも演奏できないだろうかとラハルジョさんに打診したところ、「まだだめだ」との返事をもらいました。いずれ、ジョグジャカルタでも演奏できたらと思っています。第3回のマンディ・サマサマには多くの美術家(それまでは、どちらかといえば音楽、舞踊関係の人が多かった)も参加してくださり、活動の広がりが感じられるイベントとなりました。
 2010年からは、大きなイベントをすることはなく、大阪市大の市民スタジオである天神橋アートセントー(2013年3月に閉鎖)に5月末に集まって、手弁当的に意見交換をしたり、即興的なパフォーマンスをしたりして交流を重ねました。いっぽう、ジョグジャカルタの方では、第2〜5回の創造音楽祭が順調に歩みを進めてゆきます。その財政的な基盤にはガムランエイドからの義捐金が役割を果たしました。日本からも多くのメンバーが参加し、ガムランエイドのメンバー以外に野村誠、薮久美子、林朋子、雨森信さんたちも参加しました。2012年の第4回、2013年の第5回では、20校以上が参加して優勝を争うコンクールとなり、私などが審査委員となって優劣を決めました。ただ、優劣を決めることは、そもそもの主旨からしてどうかなと思う反面、競争は大きな盛り上がりを生むのも事実であり、両面があるようです。
 この創造音楽祭は大きな芽を日本にもたらしました。その趣旨を受けて、2012年の8月に大阪にて「第1回子ども熱帯音楽祭」として「日本版」がスタートしたのです。これは大阪の4つの小学校、子どもの関係のサークル、施設が参加し、アーティストとして大友良英、野村誠、小島剛、佐久間新という個性豊かな人たちがワークショップや公演を牽引してくれました。ディレクターは雨森信さんで、野村、佐久間、雨森さんが、これまでの創造音楽祭参加を経て、日本への導入を企画しました。この背景には、2011年の東日本大震災があり、未来社会への予測不能な不安などをいかに克服していくのか、というのが多くの文化・芸術関係者の課題ともなっていったことがあります。その知恵をインドネシアの災害後のアート活動から学ぶという観点から、子ども熱帯音楽祭が日本で始められたのです。熱帯という名称は、もちろんインドネシア生まれの音楽祭であることを銘記するためです。この第1回公演は大きな評判を呼び、本年11月30日には神戸市の小学生と打楽器アーティストである横沢道治さんとのコラボレーションで「子ども熱帯音楽祭 in 神戸」という名で第2回が実現しました。
 ただ、こういう状況のなかで、ガムランエイドは当初の「震災によって生じたジャワ島中部、特にジョグジャカルタにおけるガムランをはじめとする伝統的な芸能の復興支援」というミッションから、徐々に離れてゆきました。その経緯は上に書いた通りです。次のステップである「子どものための創造音楽祭」→「子ども熱帯音楽祭」という新しいソフトにかかわる人々は、ガムランエイドのメンバーのごく一部になってしまいました。以上のような事情から、ガムランエイドそのものの活動方針の重要性はいささかも揺るがないと思うものの、組織と活動の間に齟齬が生じてきたので、ここでいったん閉じることにしたいと思ったのです。この措置については、メンバー間では今年の前半に合意はできておりましたが、遅ればせながら、このホームページにてお知らせする次第です。

 義捐金のみならず、この間にはボランティア的な労働、活動など、多種多様な形で参加してくださり、一緒に事業を担っていただいた皆さんには心より感謝を申し上げます。ここにガムランエイドの終結を宣言致します。

2013年12月8日

 

last update Dec 8, 2013
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