中川真のジョグジャカルタ報告1

 震災のあったジョクジャカルタに6月21日から24日まで行ってきました。但し、21日は夕方に着き、また24日は早朝に出発したため、実質的にジョクジャにいたのは丸2日間という短さでした。その2日間で何人の人々に会ったでしょう・・・。とにかく、車で移動しながら食事をするほどの慌ただしさで、駆け回りました。僕が目にしたもの、そして感じたことをここに書きます。出発する直前に、ヒロスさんから「真さんが現地で見ることによって、何かそこに今回の活動の哲学みたいなものを得るだろうね」と言われていましたが、果たして、そんなものを劇的に得られたかどうか分かりませんが、実際に見てきてよかったと思っています。

■6月21日(水)
 ジャカルタから飛行機でジョクジャに近づくにつれ、空は厚い雲に覆われてきました。ムラピ山の噴煙も雲のなかです。徐々に下降すると、ジョクジャの町並みが見えてきました。ちょうど東西に走る鉄道を真下に見ながら、西方から東方へと高度を下げていきます。ジョクジャの北地区を目にしているわけですが、ところどころブルーとオレンジのシートが屋根にかけられており、震災地にやってきたんだなぁと思いました。しかし、空港からホテル(今回はなんと5☆のハイヤットです。5☆ホテルでないと大学から渡航許可がおりなかったのです)までの道の両側は全くふだんと同じで、これが震災地かと思うほど平静なのです。ホテルに4時過ぎにチェックインし、すぐにシスワディ、ジョハンの両ISIの教員に電話をして、ホテルに来てもらいました。「ガムランを救え!」プロジェクトの説明をするためです。何しろ、この2日間で趣旨を説明し、海外から義援金を受け取ったり、支援プロジェクトを現地で考えたりするチームをつくらねばなりません。この機を逃すと後々にまでずれこみます。彼らから見たら、きっと僕はすごく焦っているように見えたかもしれません。

■6月22日(木)
 午前中はガジャマダ大学とISI(芸術大学)に行きました。僕の大学(大阪市立大学)のパートナー校として、ここ4年ほど共同研究やシンポジウムを催してきたため、大阪市大の教員として「お見舞い」に来たのでした。さらに、今年の共同事業の打合せもしました。僕としては、「ガムランを救え」の活動ともリンクさせながら、市大のミッションを設定しようと思い、毎年行っているシンポジウムのテーマを「震災からの芸術・文化の立ち直りと、震災における芸術・文化の役割」というものとし(来年1月に開催)、そのための被害の実情ならびに復興や新しい創造のプロセスについての共同調査を行うこととしました。この提案については、両校の研究者たちも賛同してくれて、さっそく調査チームを編成することになりました。この調査結果は、我々のプロジェクトの遂行にも大いに役立つはずです。

 ガジャマダ大学はジョクジャの北に位置しており、建物などの被害はほとんどありません。しかし、通学している学生や家族には被害が多出し、勉学が困難になっている学生も少なくありません。また、大学として被災地に救援物資を届けるだけではなく、被災地の人々の心のケアのための専門的なチームが結成され、現地に入り込んでいます。これは大学ならではの活動です。さらに、プランバナン遺跡などの世界遺産の被害についての調査も始まったようです。

 ISIはジョクジャの南側で、激甚地区にあったバントゥルの北部に位置しており、校舎の破壊のされかたはすさまじいものがありました。半分近くの校舎が立入禁止、使用不能という状態です。学長室、大学事務局もガレージを改装したところに据えられ、応接室はテントのなかでした。幸いなことに教員に死者はなく、学生が2名亡くなったとのことです。しかし、家を失った関係者は実に多く、校舎の再建とともに、自分たちの生活の再建もまた大きな荷となって覆ってきているようです。ただ、震災から4週間近く経ったことから、当初の悲嘆や落胆は少し薄まり、これからどうしようかという思案の段階にきています。バンデム学長と話したところ、校舎の再建には10年はかかるかもしれないとのことですが、9月からの新学期は、たとえ校舎がなくても通常通りしたいとのことです。僕は震災の年に神戸の甲南大学に教えに行っていたのですが、校舎はプレハブで、隣の授業の声などがまる聞こえ、音楽を鳴らすことなど全くできなかったことを思い出しました。ISIは、美術学部の建物がほとんど無事に残っているため、それを中心的に活用するようです。この大学でも、美術系の教員が中心になって、トラウマをもった子供たちをケアするアート・プロジェクトが始まっていました。

 さて、午後からはいよいよ被災地に赴き、被災した音楽家などを訪ねながら、色々話を聞いてまわりました。フィールドワークです。案内役は昨日のシスワディさんとジョハンさん。インド洋まで通じているパラントゥリティス通りを南下すると、道の両側にはレンガをはじめとする瓦礫が延々と積まれています。まるで、雪国の道の両側に積まれた雪のようです。砂塵や礫塵が舞っています。まず、音楽家のスニョトさん。周囲の家はバラバラになっている中で、かろうじて家はたっていますが、大きな亀裂が入っており、多分使えないだろうということで、テント生活。どうもこのあたりの家には「耐震」という概念はないようです。ダルマシスワで留学中の岩本象一君(CAPガムラン)が瓦礫を取り除く手伝いをしていました。スニョトさんはしかし、終始明るくケラケラと笑っていました。なんだか、笑ってないとやってられないよ、という感じです。自宅でガムラン教室を営業していましたが、それも停止。

 そこからバントゥルの奥へ20分ほど車で南下したところにクンダン(太鼓)の名手トルストさんの家が。家はほとんど消えてなくなり、やはりテント生活です。かなり消耗しているのでしょう、一気に老けた感じがしました。元通りの生活に戻ると、新しく刻まれた皺も消えるのでしょうが・・・。ふだんは色々なところからクンダンを頼まれて飛び回っているトルストさんですが、それも極端に減って寂しそうです。この日に巡った方の多くは芸大の教員だったので、少ないながらも安定した収入があるのですが、もちろんそれは家の再建には回りません。インドネシア政府は全壊の場合、1軒につき3000万ルピアを援助するといっていますが、いったいそれがいつに実行に移されることやら、見当がつかないのです。アチェの復興は終わっていないし、いま東ジャワやスラウェシでは大洪水も起こっているし。そういった経済的側面もさることながら、音楽家は演奏してナンボというもので、音楽をするところに存在根拠があります。だから、テントのそばで呆然と佇んでいるトルストさんは、まるでトルストさんのようには見えませんでした。

 ハリャントさんは民族音楽学者です。彼の家も一応は立っていますが、中に入ることはできません。ちょうどジョクジャカルタ芸術祭の委員会から帰ってきたところだそうで、いつもは1ヶ月間やるんだけど、今年は7月の中旬の3日間だけ、それもジョクジャカルタ市内ではなく、バントゥルでやることに決まったそうです。それは被災した人々を元気づけるためということで、特に子供向けのワヤン「ワヤン・カンチル」をやるなど、被災者に配慮したプログラミングにするとのことです。また音楽だけではなく、写真展なども。こういう形で、被災した人々の生活のなかにアートや音楽が入っていくことは、とても大切だと僕は思います。音楽家や美術家も、この3日間で自分たちの果たし得る役割はいったい何なのかということを確認するそうです。音楽やアートが被災した人々を癒すことができるのは当然、ということはないと思います。
どんなアートを、どういうふうに提供するのかということを、考え抜く必要があるのではないでしょうか。それを、この3日間で試そうというのです。ちょうどダンサーの佐久間新さんがそのときにジョクジャに行きますから、見てきてもらいます。ところで、ハリャントさんは地震が起こった瞬間にビデオカメラを手にして、状況を写しまくったそうです。なかなか根性がすわっていますね。その生々しい映像を編集して、さっそくDVCの作品をつくっていました。

 次にシンデン(歌手)のスニュムさん。家は全壊ですが、お孫さんを抱いてニコニコ出迎えてくれました。隣では子供が死んだそうです。そこだよと言って指をさした先には、ただ空き地があるばかり。もう瓦礫も取り除かれ、その上にテントが張られていました。

 プジョクスマン舞踊団の太鼓の名手で、音楽舞踊専門学校の次期校長であるナルディさんの家も、立っているけれどヒビだらけ。やはりテント生活です。彼は会ったなかで最も前向きでした。6月初旬に韓国での公演が予定されていたのですが、6人編成を3人編成にして彼は行ってきたそうです。韓国に行くことについてどうしようかと家族に相談したところ、「行ってきたら〜」といわれたそうです。仕事をいつものようにすることが、彼のエネルギーを生みだしているのではないでしょうか。7月にはバンコクにも1週間行って、舞踊コンクールの審査員をしてくるという。しかし、彼から次のような話を聞いたときはしんみりしました。ジャワでは、35日にいちど、色々な場所でガムランの演奏(ウヨン・ウヨンといいます)をする習慣があります。震災直後にちょうどウィヨゴさんという退職した高級官僚の家でウヨン・ウヨンがありました。演奏家の大半がバントゥル出身です。演奏家が集まって、いざボナンという楽器の序奏が始まろうとしたとき、ボナン奏者はバチを下に落として泣き出してしまいました。すると次から次へと泣きが伝染し、結局、この夜は演奏できなかったそうです。家族や親戚の誰かが亡くなったりしていて、その悲しみをこらえることができなくなったのでした。そんなときは、音楽家といえども演奏できなくなる。ウィヨゴさんはみなと膝をまじえて、ずっと話し続けたそうです。それで思い起こすのですが、今回の地震で特に大きな被害を受けたバントゥル、クラテンは、アーティストや音楽家、工芸職人を輩出するところで有名です。バティック村、ワヤン村、陶器村などが連なり、それらの家々が倒れ、人々が失われたのです。この問題の深刻さはジョクジャのあらゆる人々が気づいています。まさに、文化が消え去ろうとしているのです。その復興、再生は当事者だけではなく、これは世界的財産の問題として我々は考える必要があると思います。また、それを示す資料も作らねばならないでしょう。

 クラテンは、ジョクジャの北東部、ソロに向かう道中にあります。ガムランの名手であるトゥグーさんの村は、まさに壊滅状態でした。人々が大勢いるのに、あの静けさはなんでしょうか。樹木の間に瓦礫が積まれています。色々な形をしたテントが、家の跡に伏せっています。地震の直後は阿鼻叫喚だったと思われます。瓦礫のなかから家族を救い出し、負傷者を病院に運び、死者を弔う・・・。そこには嵐のようなエネルギーが吹き荒れていました。それがやんだときの、この静寂のおそろしさはいったい何なんでしょう。トゥグーさんはそんなテント横のゴザにポツンと座っていました。歌舞伎に出てくる平家の落ち武者のように、髪の毛は後方にばらばらと伸びています。いま彼の前には楽器はありません。音楽どころではないように見受けられました。30分ほど走ればジョクジャ市内に着きます。市内中心部はそれほど被災しておらず、いつもと変わりのない都市生活が繰り広げられています。それとのあまりの落差。
トゥグーさんは9月までここを動かないといいます。今日会ったなかでは一番打撃を受けているようでした。激甚性と連動しているといってしまうと身も蓋もありませんが、気力がわいてこないようです。そんな彼に「頑張って音楽をやりましょうよ」とはいえませんでした。ゆっくり時間をかけて取り戻していくのでしょう。彼に対して僕が何ができるのかというと、いまのところ、生活を支援するしかないようです。家の倒壊によって彼のお父さんが頭部に傷を受け、外のゴザに寝かせていたら夜半にすごいスコールが襲ってきたそうです。それが2夜も続いて、まだテントも何もない状況のなかで、布をかざしてびしょぬれになりながら兄弟でお父さんを護ったそうです。
電気がつくまで2週間。それまではろうそくのあかりだけでした。泣きながら、雨のなかを立ち尽くしていたそうです。そんな状況から立ち直るには、やはり長い時間がかかるのだろうなと思います。

 プランバナン在住のティンブルさんはガジャマダ大学の考古学教授であり、ガムラン演奏家です。彼の家も全壊となり、幸い全壊を免れた別家の庭にテントを張って暮らしています。8月にムラピ山に関する大きなセミナーが、彼のコーディネートのもとで行われる予定だったのですが、彼は中止を進言するつもりです。いまそんなことにお金を使っている場合ではないでしょう。セミナーは一握りの学者のためのものであって、いまは、もっと多くの人々のためにお金は使われるべきだというのです。これも見識だと思います。

■6月23日(金)
 朝に友人に電話をして会いたいというと、今日は金曜日で礼拝日だから、午前中は会えないことが分かりました。なので、本の校正などをして時間を過ごしていると、サンティヨさん(ダンサー)とプリョ・ムスティコさん(ジョクジャカルタ州観光文化局)がホテルにやってきました。プリョさんは、数年前に京都府の招聘で文化財保護行政を半年にわたって研修し、その後も、京都府の職員とのつながりを持ち続けている人です。去年、ジョクジャカルタ州知事(ハメンク・ブウォノ10世)が京都府にガムラン一式を寄贈しましたが、それを陰で支えてくれたのがこの人です。ちなみに楽器は現在、立命館大学に委託され、その使い方については僕がアドバイザーになっています。
 さて、彼らがやってきたのは、やはり被災関係の件です。彼らは、踊りなどを通じて、地震の被災者を支援したく、それで僕に相談したいとのことです。もちろん、僕はそのためにジョクジャに来たわけですから、さっそく話を始めました。そして、彼らの企画書を見ると・・・。なんと、コンサートを日本ですると書いてある。「えっ、ジョクジャでなくて、日本で?」。確かに、日本でもチャリティコンサートをするけれど・・・。彼らに尋ねると、日本に行って ngamen をするのだ、と。Ngamen というのは、路上で演奏して僅かな収益をあげてゆくストリートの音楽家のことです。しかも、日本に行く旅費は自分たちで工面するというのです。これにはびっくりしたし、心を打たれました。彼らの熱意を感じて、是非、日本側でも計画するからと答えました。プリョさんも含めて4名が来日します。まだ日程は未定ですが、「ガムランを救え!」の活動に組み入れたく思いました。

 午後からは、ガジャマダ大学の建築学科の教員で、文化遺産の保全やエコツーリズムなどに力を注いでいるシータさんのオフィスを訪ねました。ジョクジャカルタ周辺にはボロブドゥールやプランバナンといった1000年以上前の史跡が世界遺産として有名ですが、シータさんにとっての遺産は、それだけではなく、例えばジョクジャ市内に散在する19〜20世紀の建築(近代建築も含まれます)も含まれます。またそのような物質的遺産のみならず、非物質的、つまり踊りや音楽といった伝統的な上演芸術もそうですし、ジョクジャ周辺の村々で発展している工芸文化、つまりバティックや陶器、銀製品などもまた、村ごとひとつの文化財であると捉えています。なので、今回の地震は、それらを一挙に崩したという意味で、大変な出来事であったわけで、彼女はそれへの対応で超多忙な日々を送っています。大学とNGOのオフィスを兼ねた1軒家には、絶えず学生や記者が出入りし、まさに噴火状態でした。忙しいなか、1時間ほど時間を割いてもらって、彼女の活動や文化遺産の現状についてレクチャーを受けました。その時点で、彼女は18のプロジェクトを動かしていました。例えば、貴重な建造物の再生のために、1カ所ずつにプロジェクトを立ち上げ、それぞれの復興資金を申請するというものです。例えば、プジョクスマンの建物についてはオランダの財団に申請し、コタ・グデの古い建物にはアメリカに、というように。実に具体的できめ細かい活動ですが、それだけに労力はどれほど大変だろうかと推察されました。その全てをここで紹介できませんので、関心のある方は、www.jogjaheritage.org にアクセスしてください。英語バージョンもあります。シータさんは、むかしプジョクスマンで舞踊を習い、踊っていたそうで、そういう意味では建築だけではなく、広くジョクジャの文化財について射程を広げています。僕は彼女に、「ガムランを救え!」プロジェクトの説明をし、ジョクジャ側の対応メンバーになってほしいと言い、快諾をもらいました。もちろん、シータさんのパートナーであるアキさん(インドネシア総領事館勤務)が日本側のメンバーであることも言い添えて。

 ホテルに戻ると、ISI(芸術大学)の情報記録学部(メディア・レカム)の教員が2名来ていました。エディアル・ルスリさんとパムンカスさんです。彼らは写真学科の教員で、被災の後、すぐに現場に入って写真を撮ったとのことです。それを日本に人に見せてほしいと言って、写真データを持ってきてくれました。パソコンで見ると、壊滅した村の全容が写っている空中写真もあります。パムンカスさんは、ジャワポストという新聞社のカメラマンもつとめ、ヘリコプターで回ったらしいのです。クレジットさえつけると、その写真を日本での展示や、メディアで使用しても大丈夫というので、ありがたく頂戴しました。全部で100枚程度ですが、その1枚1枚はかなりの迫力で、死体なども平気で写っていました。これも必ず日本の方々に見てもらいますと返事をしました。チャリティコンサートなどでの展示やプレゼンに、とてもインパクトがあると思います。
 それから、ガジャマダ大学に行って、以前の学部長であり、日本でいえば経産省の副大臣を務めていたシャイリンさんに会いました。彼は社会人類学者です。今回の地震について、ジョクジャの人々はどんなコスモロジカルな解釈をしているのだろうかと尋ねました。これはとても微妙な問題です。今回の地震が単なる物理現象と思われているかというと、必ずしもそれだけではない。昔から、こういう災害は「カミ」あるいはそれに匹敵するものによる「怒り」であると捉えられてきたからです。特に、ムラピ山の噴火とともに、インド洋海岸近くでの地震を重ね合わせると、ジョクジャという街(あるいは宇宙)を形成しているコスモロジーとの関連を考えざるをえません。それはすなわち、場合によってはスルタン批判にもなりかねないのです。

 シャイリンさんは、スルタンへの言及を慎重に避け、人々の噂として、「ジョクジャの人々は昨年からのムラピ山噴火のことばかり気にしているから、南海の女神であるロロ・キドゥルが嫉妬して暴れたのだ」という話を紹介しました。実は、前代の王であるハメンク・ブウォノ9世は、ムラピ山の守護神と特別な盟約を結び、それが現10世にまで尾を引いているという解釈です。僕はシャイリンさん以外にも、多くの人に、今回の地震の背景を聞いてみました。なかには、あからさまにアルンアルン広場の地下に駐車場を作ろうとするから、南北の神々が怒ったのだという人もあります。ただ、ある学者が、このように答えたのが印象的でした。「今回の地震の後、すぐにスルタンは、これは南北のカミガミというジャワ的なできごとではなくて、天のカミ(すなわちアッラー?)の決定だと述べた」というのです。その学者によれば、こういう言及は、スルタンにとっては、ジャワ的なものからイスラム的なものへという、大きな転換を強調していることになります。このあたり、部外者の僕などには容易に踏み込みかねる宗教的問題ですが、ジョクジャの人々のある種の関心になっているのは事実です。

 黄昏の時間にプジョクスマンに行ってきました。ハメンク・ブウォノ9世とともに、ジョクジャの舞踊の最盛期をつくった天才舞踊家ロモサス(ロモ・サストロミンディプロ)が活躍していた民間舞踊団の本拠地です。ロモサスは90年代半ばに亡くなりましたが、遺志を受け継いで、舞踊の教育、上演がいまも定的的に行われています。ロモサスのパートナーであったブ・ティアがこの舞踊団の事実上の代表者であり、彼女自身が高名なダンサーであったことから、多くの弟子をもっています。プンドポの隣りにテントが張ってあって、そこに彼女は寝泊まりしているとのことですが、僕が行ったときには、奥の住居の整理をしていました。会っただけで、彼女はもう半泣きでした。彼女の寝室を見せてもらうと壁が激しく崩壊していて、ベッドの上には瓦礫が。えっ、ここに寝ていたのに、よく無事に・・・と言うと、ぐらぐらと来たときに、誰かが私の手を引いてくれて外に出られたのよ、と言います。それは誰だったんですかと尋ねると、人間じゃなかったといいます。う〜ん・・・・。いずれにせよ、彼女自身は無事だったのですが、住居、プンドポ、楽屋、リハーサル室、事務室など、いっさいの建物が傾いていて、そのままでは使用不可能でした。スラバヤから「8月17日大学」の学生チームが来ていて、どうやら建築学科の学生らしく、いろいろアセスメントなどの手伝いをしていました。アジアの文化遺産建築研究のネットワークがあるらしく、今回の地震については東大の村松先生もチームに入っていることが分かりました。倉庫に塵をかぶって楽器が横たわっていましたが、幸いなことに大きな損傷はないようでした。しかし、汚れてしまった衣裳などはかなり痛手のようです。大きなガルーダ(鳥)の着ぐるみは、白い布を巻かれて、本当に息苦しそうでした。 ここの教育事業は、タマンブダヤ(文化センター)の一室を借りて再開しますが、プジョクスマンのプンドポで再開できるのはいつのことでしょうか。ジョクジャのなかで全壊や損壊を受けた重要建造物は数知れず、ここにまで手が差し伸べられるのは遠い先のように思われます。そういう意味では、日本での佐久間新さんのように、世界中のプジョクスマンの「卒業生」が力を合わせて支援をしなければならないでしょう。もちろん僕もその一翼を担うつもりであります。 だいぶ日も暮れかかっていましたが、傾いたプンドポの周囲で、子供たちがサッカーをしていました。ボールの跳ねる音、互いに交わす声は日常そのものでした。徐々にこういう風景を取り戻していかねばならないのです。

 すっかり暮れてから、佐久間新さんの家に行きました。いつもは僕の定宿なのですが、今回は訪問だけ。隣との壁が完全に崩落していて、なんだか銭湯の女湯と男湯の境界がなくなったような(実際にはそんな現場に行ったことはないのですが)、照れくさい感じがしました。住居の壁には相当な亀裂が走り、ドアがうまく開かないところもあります。ここには、関西から芸術大学に留学中の西岡さん(マルガサリ)、川原さん(ふいご日和)が下宿していて、ちょっと彼女たちの話も聞きました。ふたりとも神戸の震災を知っていますから、最初は本当に怖かったそうです。水が出なくて、ソロにまで避難したり・・・。大学の方も建物がぐちゃぐちゃになってしまったので、授業は打ちきられ、9月から再開とのこと。もちろん、舞踊などの個人レッスンも再開されていません。なんともいえない状況ですね。マルガサリのメンバーで今夏からダルマシスワで留学する人がいるのですが、ジョクジャのISIが希望だったところ、ソロのSTSI(芸術大学)に振り分けられました。短期的にはその方がいいかもしれません。しかし、ジョクジャの人々や大学が、どのように復興、再生していくのかということを、同じ空気を吸いながら体験するのも貴重だと思います。西岡さん、川原さんには、ありきたりですが、「頑張って!」と言いました。

 いったんホテルに戻り、余力があったので、ジョクジャのもうひとつの王宮、パクアラマンに行きました。ここで35日に一回の定例コンサートがあるからです。地震があったけれど、ここではいつも通りのイベントがありました。ホテルから友人の車で送ってもらい、王宮についたのは午後10時。演奏は12時までなので、まだたっぷりとあります。門でおろしてもらい、ゆっくりとプンドポに歩いていくと、パクアラマン独特のふんわりとして透明感のある音がきこえてきました。なんだか海の底にいるようです。ゆらゆら揺れる海草やキラキラ光る海底の砂地から、碧い響きが泡粒のように立ちのぼっています。 演奏している人は、きっと追悼とかじゃなく、純粋に音楽に浸っているんだろうなと思いました。それこそが日常なんですね。プンドポに近づいていくと、クンダン(太鼓)のところで誰かが手を振っています。あ、トルストさんだ。彼はニコニコしながら、クンダンをたたき、そして僕に手を振っているのです。そこには、いつものトルストさんがいました。僕はとてもうれしくなって、大きく手を振りました。すると、他のプレーヤーもわさわさと手を振ってくるではありませんか。あんたら、いま演奏中なんでしょと思いながらも、こんな時間のありがたみがしっかり伝わってくるのです。

訪問報告もくじへ
プロジェクトメンバーによる他のジョグジャカルタ訪問報告

釆女直子:ジョクジャリポート
 7月9日〜13日 滞在
(市民メディア・インターネット新聞JANJANより)
佐久間新:ジョグジャ滞在記
7月14日〜18日滞在
                (プジョクスマン支援の会プログ)

 

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