中川真のジョグジャカルタ報告 2

 今回の訪問は 11月14〜16日で本当に駆け足でした。本務は大阪市大の教員として、現地の大学との共同研究の打ち合わせということだったので、その合間を縫って、被災関連の用事を済ませたのでした。

■11月14日(火)

 もう雨季のはずですが、今年はまだ本格的な雨が降っていないとのこと。水を必要とする農業にとっては好ましい天候とはいえないでしょうが、こと今年に限ってはラッキーです。被災地の仮設住宅の建設が急がれているいま、少しでも雨の到来の遅い方が、家を失った人々には助かるからです。カミサマは住宅の建設が終わるのを待ってくれているのかもしれません。いま「建設」という言葉を使いましたが、そんな構築的なイメージはありません。竹を主材として用い、強い植物繊維で編んだゴザのようなものを、その周囲に張り巡らすだけのものですから。組み立てるといった感じでしょうか。しかし、日本の地震時の仮設住宅とは違って、自然の素材を使っているので、いかにも手作りの肌合いを残し、良くいえば瀟洒な感じですらあり、居心地は悪くなさそうです。もちろん、窓などのとりつけには不便がありますから、内部は少し暗い感じです。そもそもジャワの住居の内部は暗いですね。

 ホテルに到着して電話をすると、我々のパートナーであるフォーラム7のメンバーであるジョハンさんとシスワディさんが夕方にやってきました。彼らがいま力を入れているのでは、バントゥル村に住んでいるガムラン演奏家を集めた臨時の合奏団による練習と作品づくりです。このチームは 15〜20人のジャワ・ガムランのフル編成で、メンバーは、芸大の教員などといった定職をもっておらず、かつハイレヴェルな演奏能力つまりプロの実力をもった音楽家ばかり集めています。被災を蒙ってガムラン関係の仕事が殆どなくなったので、音楽家支援という形でこのプロジェクトは始まりました。これまでにフォーラム7の映像関係者の制作で、このチームのDVDを1枚つくっています。これは彼らの音楽をBGMとしながら、ジョクジャカルタの音楽家をはじめとする住民の被災と復興のドキュメントが綴られていて、しばしば彼らの演奏風景も画面のなかに挟み込まれています。いま、さらに彼らは地震をテーマとした作品づくりをしています。ちょうど僕の訪問に合わせて、RRI(インドネシア国営放送局)の放送のための録音を明日やるとのことです。

 彼らと話していると、ややこの活動に特化していると思われたので、フォーラム7の自主企画以外に有意義な芸術復興支援のプロジェクトがあれば、フォーラム7に託している基金(義援金)のうち 20%以内の範囲で、共同企画という形で使ってほしいと申し入れました。また、一部の音楽家だけではなく、音楽やダンスを媒介として、より多くの人々にメッセージを伝えてほしいので、村でのコンサートやワークショップも開いてくれるよう要請をしておきました。いずれにせよ、彼らの活動が一目で分かるような文章なり表をHP上に作らねばなりません。

■11月15日 (水)

 朝9時に、プリョ・ムスティコさんが、友人のサスミトさんとホテルにやってきました。ムスティコさんはジョクジャカルタ州政府の文化観光局のジャカルタ支局長という要職を今年の9月まで続け、まさに定年退職をしたばかりです。9月 23日に京都の立命館大学で中部ジャワ復興支援のチャリティコンサートをしたのですが、そのときムスティコさん一行3名がやってきて、我々支援バンドと共演しました。主催は立命館大学と京都府国際課でしたが、実質的なコーディネートは僕や佐久間新さんをはじめ「ガムランを救え!」でやったと言っても過言ではありません。コンサート直後にジャワ側、立命館、京都府そして「ガムランを救え」のメンバーが協議して、義援金はジョクジャカルタの政府ではなく、ムスティコさんのグループに渡す、しかしその使途についてはムスティコさんが中川真と十分に検討した上で決定し、その経過を全て立命館と京都府に報告することとしました。翌9月24日に中国古箏の演奏家であるウー・ファンのコンサートが立命館大学で開かれ、そのときにもまた支援の呼びかけをしたらしい。ウー・ファンは阪神大震災で姉を亡くし、ジャワ震災に対しても人ごとではない気持ちをもっていたということだったのです。古箏のコンサートじたいは、それとは関係なく計画されていたのですが。結局、両日で20万円以上が集まり、ムスティコさんに送られました。その使い道を決めようというのが、この11月の会合の目的だったのです。今回の支援金は「ガムランを救え」から送ったものではないにしても、実質的には我々が生み出したものといってもよいでしょう。なので、僕も責任を感じていました。ここに「ガムランを救え」プロジェクトの一環として、報告する次第です。

 ムスティコさんのアイデアはこうです。被災の最も甚大であったバントゥル地域では、ガムランの多くが損傷を受けている。しかも、ゴングのような強度なものというより、楽器を載せる台枠や弦楽器など、毀れやすくしかもそれほど高価でないものが、損傷の中心である。しかし、そのことによって練習すらできなくなっている。これまでの活動の経緯からして、そのなかでも一日でも早く再開を望まれている楽器から補修していきたい、というものでした。これは、フォーラム7でも開始していることと重なっており、僕としては異を唱える理由はありません。さっそく、その現場に足を運ぶこととにしました。

 ていねいに現場を回ったのは、震災直後の6月から数えると5ヶ月ぶりのことでした。ジョクジャカルタ市内はもはや殆ど震災の記憶をとどめていません。もちろん、車から見える道路沿いだけの話ですが。今回はバントゥルだけに行ってきたのですが、その傷跡はまだまだ深いものがありました。そこに住む人々の心にまで踏み込むことはできませんでしたが、物理的なレベルで復興からははるかに遠い。レンガやガラクタはまだ積まれたままです。そして、家のなくなった空き地や庭に、最初に述べた仮設の住居が建っています。近づくと分かるのですが、そこに支援したグループや国の名前が書いたステッカーや小旗が貼ってあります。支援の成果が目に見えるように示されているのですね。それも大切なことのように思います。誰が支援してくれたのかが分かる方が、支援された側も具体的なプロセスが分かっていいのではないでしょうか。

 さて、最初に行ったのがクラピャック・ウェタン小学校(生徒数 360人)です。校舎3棟が崩壊しました。理科の教材(人体の骸骨模型など)とともに、ガムランが埃を浴びて放置されていました。いま、ちょうど練習にも使える建物をつくっているそうです(2006年12月に完成予定)。ゴングを吊す台が毀れていました。また、訪問すると何人もの関係者に挨拶されました。

 次に行ったのがカラン・ゴンダン小学校です(生徒数 199人)。ジョクジャカルタ近辺の小学校に必ずガムランがあるわけではなく、おそらく10〜20%とのこと(ムスティコ氏談)。ここでは練習場は無事。ボナン、クノンなどの突起部分が割れています。またルバブも胴の皮が破れていました。グンデルの調律もかなりおかしいのですが、これは地震以前からでしょう。しかしそれも直すことにしました。

 ガムラン合奏団 Trigesti Laras は最も被害の大きかった村にあります。このチームではシンデン(女性歌手)が夫とともに亡くなりました。団長はブロト・カルノさんで84歳。まだ矍鑠(読めますか? カクシャクです)たるもので、字の長を務めた1965年以来、ガムランの団長も務めているそうです。鉄のガムランですが、オランダの製糖会社が戦後につぶれて、その工場の鉄を溶かして作ったそうです。なかなか興味深い物語です。そういえば、このバントゥル地区には植民地時代の製糖会社の建物がそのまま残っています。ここのガムランも、こんどの震災では主に台枠が毀れました。まだ一度も練習をしていないとのこと。修復が終われば再開したいとのこと。

 最後にやや市内よりの、ブ・スハルディさんの家に行きました。彼女はシンデンとして活躍していますが、その息子さんのラハルジョさんは、マルガサリとの関係も深く、ちょうどマルガサリのために “ Gempa(地震) ” という作品をつくったところです。ちなみにこの曲は 2007年3月25日に、大阪のザ・フェニックスホールで初演されます。自宅は崩壊し、しばらくの間、ガムラン楽器は雨ざらしになっていたので、台枠が傷み、調律も狂ってしまいました。楽器の素材は鉄、銅、青銅とまばらで、グンデルのように特に要となる楽器は青銅製のいいものを使っているとのこと。グループ名は Ngudya Wirama といい、練習の再開を希望しています。当面は練習場を建てることができないので、別の場所を探しています。

 以上がムスティコさんとの損傷ガムラン訪問記です。この日は忙しくて、午後には RRIのスタジオに行き、フォーラム7の主宰する合奏団の録音に立ち会いました。約1時間に及ぶ大曲なのですが、初めはジャワの古典曲がごく穏やかに続きます。とりわけゆったりとした静謐な曲が選ばれています。ところが、途中で急に曲想に暗雲が垂れ込み、激しい音の上下が強打で演奏されます。地震の襲来です・・・。翌日の放送のための録音だったのですが、最後の10分ほどは聴くことができず、ガジャマダ大学に移動しました。ガジャマダ大学文化科学部とインドネシア芸大の2機関と、僕の所属する大阪市大文学研究科が交流協定を結んでいるため、来年の事業の打ち合わせをしました。

 これ以降の話は、もはや「ガムランを救え」とは関係なくなる筈ですが、実は、大いに関係があるので、ここに記しておきます。来年の1月にアカデミック・フォーラムと称するシンポジウムを開催する予定なのですが、そのテーマを “ Recovering Management of Arts and Cultural Heritages from Disaster ” に決めました。つまり、災害が起こったときに、どのように芸術や文化遺産を保全あるいは再生、さらには創造するのか、その哲学や方法論を議論しようというものです。もちろん中部ジャワ地震という出来事を受けてのものです。「ガムランを救え」プロジェクトと大きくかかわるテーマです。・・というか、僕が両方に関係しているので、このようなテーマに決めたわけですが・・。大阪市大は大学としてこの両機関を復興のための経済支援を多少してきたので、その流れもあります。来年のシンポのための報告書作成のための調査(被害や復興状況)資金も渡して、準備を始めました。このシンポでは、僕の基調講演をはじめ、日本側からは神戸大学の松下正和助手(史料ネット事務局長)と神戸アートエイドの島田誠さんが、神戸での体験を踏まえた発表をします。またジョクジャカルタ側からも4人が発表。

 中部ジャワに地震が発生してからこの半年、僕の関心や活動も大きな変化を遂げました。地震のおかげといえば語弊がありますが、こういった事態が契機となって、多くの人々に新たに出会うことができました。自分のできることの最大限はしてみたいと思っています。あるいは、こういうことをするのが、僕にとってはもはやボランタリーなことではなく「仕事」なのかもしれません。

 

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プロジェクトメンバーによる他のジョグジャカルタ訪問報告

釆女直子:ジョクジャリポート
 7月9日〜13日 滞在
(市民メディア・インターネット新聞JANJANより)
佐久間新:ジョグジャ滞在記
7月14日〜18日滞在
                (プジョクスマン支援の会プログ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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