Mandi Samasama!
27 May, 2007 @ CAP HOUSE

"Kompas"紙

コンパス紙 2007年6月4日月曜日
訳:青木恵理子、佐久間新
インドネシア語記事原文

神戸で、ジョグジャ地震の記念イベント

 2007年5月23日水曜日朝、大阪の気温は摂氏約23度、日本人にとっては、これぐらいの気候でも暑いと感じるそうだ。わたしとジャカルタから来た二人の舞踊家のサンティとナナは、ようやく関西空港へ到着した。5月27日に神戸で行われるジョグジャカルタ地震1周年の記念イベントに出席するために、「ガムランを救え!」の招待を受けて、来日したのだ。ジョハン・サリム達が来る3週間前に、ジョグジャ出身の美術家であるピウス・シギットはすでに到着して、現地の芸術家と共同制作を始めていた。
 ジョグジャカルタに4年間滞在し、ジョグジャ様式の古典舞踊を勉強した舞踊家の佐久間さんがわたしたちを迎えてくれた。1990年製の日産の車で、わたしたちは約1時間半もかかる彼の家を目指した。1時間ほど、高層ビルの風景を十分に楽しんだ後、やがて車は緑豊かな山間地帯へと入っていった。対照的な風景だった。山間には広がる棚田が見え、吹き寄せる田舎の風がジャワの風景を思い出させた。2時間も延着したフライトの疲れが少し癒された。
アスファルトの道路はそれほど広くも立派でもなく、曲がりくねっていて、チパナスやカリウランやブキッ・ティンギへと向かう道中を思い起こさせた。わたしたちの車は、表通りから、宿泊する家へと向かう傾斜のきつい坂のところで曲がった。佐久間さんと同じく舞踊家でジョグジャ出身の妻であるウィヤンタリの家は、大阪の町から90キロ(訳者注:関西空港から約90キロの誤り)離れた豊能町の山間部にあった。瓦屋根を乗せたリマサン(訳者注:ジャワでよく見られる三角屋根)様式の建築の家屋が点在する田舎の自然は、熱帯地方の住宅地域とあまり変わりがなかった。異なっていたのは、肌に直接感じる4月から6月まで続く春の気温だった。日没は19時まで遅くなっており、その時間に空がようやく少しずつ暗くなり始めた。何人かの友人達と宿泊する家の二人が肉やキノコや野菜を焼いて、わたしたちをもてなしてくれた。そしてもちろん、体を温めるために少しばかりの酒を飲んだ。夜が更けると、気温は15度にまで下がり、わたしたちは体を震わせた。翌日以降、わたしたちは神戸にある地震博物館(訳者注:阪神淡路大震災記念 人と防災未来センター)やいくつかの博物館の見学に誘われた。

「ガムランを救え!」
 昨年のジョグジャ震災は、ジャワで勉強したことのある人を始め、日本の芸術家達のヒューマニズム精神を奮い立たせた。ガムラン演奏家、舞踊家、そして美術家達が非営利的組織を立ち上げ、資金を集めるために、いくつかの都市で公演や展覧会をするに至った。「ガムランを救え!」のメンバーの大部分は、大阪、東京、京都、そして神戸から集まっている。日本では、生活習慣は完全に現代的だが、伝統的な生活習慣の知恵や家族意識といったものは、芸術家仲間などの社会の一部では依然として残っている、というのが現実のようだった。特に、日本におけるガムラン音楽に関わるグループやそれを取り巻く環境は協調的で、依然として、高尚な文化の象徴や名声を持つものとして敬われているジャワでのガムラン音楽社会の状況とは異なっていた。
ジャワのガムラン演奏家の生徒になったことのある日本人の演奏家達は、単に音楽だけでなく、音楽を成り立たせる社会の生活にも思い入れを持っている。さらに彼らは、1995年に1万数千人(訳注:実際より多くなっている)の犠牲者を出した神戸で起こった地震をも経験しているのだ。こういった事実が原動力となって、ヒューマニズム精神やもっと一般的な通念から、彼らはジョグジャのガムラン演奏家達を支援するために集まり、協力しているのだろう。そして、この活動によって得られた資金は、ジョグジャカルタの芸術家と文化人をメンバーとするフォーラム7によって運用されているのだ。この活動が円滑に行われるには、互いのコミュニティ間に、仕事のネットワークが構築される中で、情報の共有、信頼感、相互理解、そして、共通の価値観が存在することが前提となるであろう。
 2年目を迎える「ガムランを救え!」とフォーラム7の協働は、地震被害者である音楽家があまり恵まれてない条件のなかでも、かつてと同じように活動できるように、活気づけ、鼓舞することを目指している。震災後の1年間、フォーラム7は、ジョクジャで被災した音楽家と協働し、既に数回、録音のための演奏会を行い、インドネシア国営ラジオ局のガムラン番組のためにも演奏を行ってきた。その後も、被災した音楽家が新しく創作した作品を演目とする公演を行ったり、最近では、ワヤン・パデタンの伴奏も行った。この一年間に、約50人の被災した音楽家がこれらの活動に参加した。最初の一年間に、わたしたちが優先した音楽家は、勤め先を持たない芸術家、つまり音楽を職業とし、主にフリーでガムラン演奏によって生活している人たちであった。
 震災の援助活動が日々の生活に直結する物質的なものに集中しているために、こういったグループは復興プログラムの対象からこぼれ落ちてしまっていた。多くの団体によって配分される援助は、使途が定められているので、フォーラム7は、芸術活動にとって重要である分野を対象とした。

マンディ
 神戸で開催されたジョクジャ震災一周年のための記念イベントは、「マンディ・サマ ・サマ」もしくは「温泉」、つまり、お湯を使って入浴するという日本の伝統に由来するテーマの元に行われた。そのコンセプトは、ひとたび、おしゃべりをしながらお風呂に集えば、種族、宗教、年齢、役職、教育、職業といった肩書きによる隔たりはなくなり、物質的なこだわりのない平等で親しみ溢れる雰囲気が生まれる、というものである。
 4階建ての「神戸CAP House」では、朝から晩まで、美術作品の展示や日本とインドネシアのあちこちからやってきた芸術家たちによる公演が繰り広げられた。このため、CAP Houseのそれぞれの階では、様々なプログラムが同時に進行した。午前10時、「マンディ・サマ・サマ」は、何人かの仏教修行者たちによる、震災の犠牲者と遺族への平安と安寧の祈りとともに始まった。引き続き、商品の販売、インスタレーション、絵画、ジョクジャ震災の写真の展示、パフォーマンス、手品、日本の紙芝居、ジョクジャ風ワヤン・パデタン、舞踊と音楽(古典もあればコンテンポラリーもあった)の公演が行われた。
 奥さん方のガムラングループと一緒に、在大阪インドネシア領事館のスタッフと家族もやって来て、雰囲気を盛り上げるのに一役買った。わたしは、ジョクジャカルタにあるISI(インドネシア芸術大学)の音楽家であるラハルジョの作品「グンパ 地震 」の一場面に出演した。この曲は、中川真教授をリーダーとする大阪のガムラングループ、マルガサリによって演奏された。その後のシンポジウムにおいて、震災後のジョクジャカルタの芸術家の活動について、芸術家間の対話がなされた。さらに、大阪、神戸、京都、東京からの音楽家を交え、ダルマ・ブダヤもいくつかのジャワ古典ガムラン曲を演奏した。地震の経験に突き動かされて創られた新曲もあれば、即興もあった。参加した芸術家はすべてボランティアで、宿泊及び交通費は自分もちであった。公演の合間に、このような催しは、お互いの心にとどめ、相互に力づけるためにとても重要である、と彼らは話しあっていた。
 この団体の資金は、献金者や日本政府、そして、これまでのチャリティ公演の成果から集められている。友情とは、楽しいときだけではなく、悲しいときにこそのものである。それゆえ、共同性を支えるためにできることは何でも、社会資本として追求されなければならないだろう。
 この記念イベントの目的は、天災による悲しみのロマンティシズムに浸ることではなく、復興してより良い生活を目ざす情熱を形あるものにすることである。125人の芸術家が参加したこの活動は、神戸の芸術家とフランスの芸術家が10年間協働した、神戸震災後の経験に基づいている。現在にいたるまで、芸術活動の資金援助、共同公演、或いは公演を通じた相互交流、展覧会、ディスカッションという形をとって、日仏の芸術家の国境を越えた友情の絆は固く結ばれている。ジョクジャ震災で被災した芸術家と日本の芸術家が、神戸とフランスの芸術家たちがしたように協働してゆく関係を築くことが期待される。
 そのため、来年の記念日には、「温泉」のモットーと共に、彼らがジョクジャカルタを訪れ、ジョクジャの芸術家と共同公演する計画である。

ジョハン・サリム ジョクジャカルタ・フォーラム7・コーディネーター

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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